全日制普通高級中学教科書『日語』の第2冊第1課(7頁)の本文に、「しかし、『あなた』は、特別な場合を除いて年が上の人には使えない言葉です。」という文が出ています。この「特別な場合」とはどんな場合を指しますか。
日本語では、人を呼ぶ時一般に人称代名詞を避ける傾向があります。特に二人称の「あなた」はかなり限定的に使われることばです。年上の人が年下の人や同輩者に向かって使うことはある程度許容されます。例えば、先生が生徒を「あなた」と呼んでも差し支えありません。しかし、生徒が先生を「あなた」と呼ぶと先生に不愉快な感じを与えます。年上の人を呼ぶ時は「あなた」の代わりに「苗字+さん」や職位名を使うことが比較的に多いです。では、『日語』の「特別な場合」とはどんな場合があるのでしょうか。例えば、会議や討論会などで、それまで相手を「~さん」と呼んでいた人に向かって、机を叩きながら「何言ってるんですか、あなたは」と言う場合があります。これは議論が激しくなり、ついに喧嘩状態に発展し、お互いに距離が生じた時の言葉です。もともと「あなた」は「むこう」や「あちらのほう」を表す方向代名詞で、のちに二人称として使われるようになったといわれています。したがって、上の場合「あなた」を使うことによって、相手を冷たく突き放し、相手との距離を保った言い方になるのです。一方、アンケート調査などによく見られる「あなたはどう思いますか」という使い方は、不特定多数や抽象的な感じを与え、特に抵抗はありません。「あなた」の一般的な使い方といえます。また、夫婦間の会話で妻が夫を「あなた」と呼ぶことが多いです。「ねえ、あなた」「あなた、そのネクタイ、すてきよ」というように、甘えや親しみ、軽い敬意を込めて使います。
加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員
「に」と「で」
高校『日語』第1冊第1課6頁に「ベートーベンはドイツで生まれた有名な作曲家です」という文がありますが、「ドイツに生まれた~」とも言うことができると思います。その場合、「で」と「に」の違いを教えてください。
確かに「に」でも使えます。どちらも場所を示す助詞ですが、視点の置き方が違います。例文を見てください。
(1)応接間で花を生けました。
(2)応接間に花を生けました。
(1)は花を生けた場所は応接間ですが、その後花は応接間にあるとは限りません。
玄関や居間に置かれていることも考えられます。
(2)は応接間で生けた花は、そのままその場所に存在していることを表しています。つまり、「で」は動作・行為に、「に」は動作が行なわれた結果の存在に視点が置かれています。
(3)彼は商家で生まれました。
(4)彼は商家に生まれました。
(3)は生まれた場所が商家であって、そこの息子であるとは限りません。
(4)は商家の息子として生まれ、その結果、そこに存在することになったことを表しています。
では、質問の「ドイツで生まれた」と「ドイツに生まれた」を比べてみましょう。「で」は「生まれた」場所がドイツであるという、動作・行為が行われた場所に視点がおかれています。「に」はドイツという場所に生まれて、その結果存在している、ドイツへの帰属意識的なニュアンスが込められているとも考えられます。
加納陸人
文教大学教授/『日語』日本側主任編集委員
「私」の読み方
高校『日語』第1冊第1課6頁に「わたしには将来童話作家になりたいという夢があります」という文があります。「わたし」はどうして「私」と漢字で書かないのでしょうか。また、この「私」が出ている場合、「わたし」か「わたくし」か、判別することができるでしょうか。
現在の漢字の読み方の基準になっているのものは、「常用漢字音訓表」(1981年10月1日内閣告示)です。そこには、「私」の読み方として、訓の「わたくし」と音の「シ」が掲げられています。「わたし」という読み方は認められていません。「わたし」と表したいときは、ひらがな表記になります。この教科書もこの考え方に基づいて作成されています。
「私」は一人称の代名詞のほかに「個人に関することがら」などにも使われます。例えば、「このたび私ごとで皆様にご迷惑をおかけしました」「市立学校ではなく私立学校です」*「国の命運をまかされている人は、私の気持ちがあってはならない」などが挙げられます。いずれも「わたくし」と読まなければなりません。
しかし実際には、代名詞を表す「私」は「わたくし」か「わたし」か、あまり区別しないで使われています。中には、「私」と書いて「わたし」とふり仮名が付けてある場合もありますが、判断が難しいこともあります。音読する場合は、文体や書き手の年齢、場面などを考慮して判断するしかありません。例えば、公的な場所で改まって「本日、私がこちらにまいりましたのは……」とスピーチする場合は、「わたくし」だと推測がつきます。一方、わりあい親しい間柄の場面で「私、今、困っているんです」と書かれている場合は、「わたし」だと考えられます。
*「市立」「私立」は両方とも「しりつ」と読むので、特に区別したい時は、「いちりつ」「わたくしりつ」と言う。
「どうぞよろしく」と「どうぞよろしくお願いします」
高校『日語』教科書第1冊第1課に次のような会話があります。
(1)周明:はじめまして。どうぞよろしく。
丁恵:こちらこそ。どうぞよろしく。
(2)丁恵:はじめまして。どうぞよろしくお願いします。
小川:こちらこそ。よろしくお願いします。
上の二つの会話を中国語に翻訳したら同じ意味になりますが、どう違うのでしょうか。①の「どうぞよろしく」は「お願いします」を省略した形でしょうか。
会話文を理解するうえで大切なことは、場面や人間関係です。まず(1)と(2)の会話が成立した背景について考えてみましょう。周明と丁恵は同じ高校の1年生で、名前はお互いに聞いていましたが、話すのはこの時が初めてです。小川は日本からの留学生で、周明と丁恵より年上です。
会話(1)では、周明と丁恵はどちらも「どうぞよろしく」という言い方で、ていねいさを少し抑えています。「よろしくお願いします」とした場合、よそよそしい感じになり、自然さに欠けます。ですから、会話(1)の「どうぞよろしく」には、周明と丁恵の「同級生」という親しみも込められています。「お願いします」を省略した形ではありません。
会話(2)の「どうぞよろしくお願いします」は、会話(1)の「どうぞよろしく」と比べるとていねい度が高いです。丁恵が年上の小川にていねいな言葉づかいをするのは当然ですが、小川も年下の丁恵にていねいな言い方をしています。小川にとって、丁恵ははじめて会った人で、あまり親しくない、自国の人ではない「ソト」の人間だ、という意識なども働いています。
「~の時」と「~の時には」
高校『日語』教科書第1冊第1課「わたしたちの夢」の本文には、次のような三つの文があります。
(1)小学生の時には、童話の本をたくさん読みました。
(2)中学生の時、童話を書いてみました。
(3)中学三年の時、体操の練習でけがをして入院しました。
上の三つの文はそれぞれ「小学生の時には」「中学生の時」「中学三年の時」とありますが、それぞれ話し手のどんな気持ちを表したものでしょうか。「~の時」「~の時に」「~の時には」は、区別しにくいのですが、どのように違いますか。
ここでは「名詞+の+時/時に/時には」に限定して考えていきたいと思います。
「~時には」は、主題をとりたて、話し手の判断や対比性を表します。①の文は現在やほかの時期と比べて、小学生の時自分はどうだったかを振り返ってみると、「童話の本をたくさん読んだ」という判断や意識が働いたと考えられます。①は本文の書き出しでもあり、小学生の時のことを相手に伝えたい気持ちが働いています。
「~の時」と「~の時に」と比べると、「に」をつけたほうが、ある時の一点を表し、その時にどんな行為や事態が発生したかを表しています。例えば「子供の時によく動物園に行きました。」という文は「子供の時」という時点に視点が置かれています。
(1)の文を「小学生の時」に置き換えた場合、(2)と(3)と同じように、ただその事実を述べるだけです。それに対して、「小学生の時に」に置き換えた場合、「童話の本をたくさん読んだ」時点に視点が置かれます。
「方がいい」の表記の仕方
高校『日語』教科書第1冊第2課に「後でかけ直した方がいいでしょう」という文があります。この「方」は、「使い方」の「方」の読みと混乱しやすいのですが、「ほう」と平仮名で教えてもいいでしょうか。
日本で出版されている日本語の教科書や参考書では平仮名表記も漢字表記も見られます。実際の社会でも、どちらも使われていますので、「ほう」の漢字にも対応していかなければなりません。この本文の文脈から見て、「かけ直した方がいい」の「方」を「かた」と読んだり、「使い方」の「方」を「ほう」と読んだりすることはないでしょう。しかし、このような質問が出された背景に、現場の教師や高校生に誤解や混乱を招いたという状況があれば、平仮名表記にするべきでしょう。
日本語能力試験では、「方(かた)」は4級、「方(ほう)」は2級レベルです。中国の教科書でも「方(かた)」を「方(ほう)」よりも早く